2014年10月13日月曜日

我輩が燃えた事情


我輩は、今年年初から退職引退を果たしたが(夢の「隠退」は未だし)、それまで長年、事務職と管理職の所謂会社員だった。

一般に会社員一人の仕事は全体の一部を受け持ち、自分の勤労とその成果とが直結することまれで、直結する場合でも相当の時間を隔てる。管理職においてもしかり。

マルクス系で言う労働の疎外がこれか。

その点、草刈りという作業は、やればやっただけの結果が直ぐに見え、労働の喜びをこれほど強く実感できるものはない。

田舎の人がよく「草刈りは大変だ」と連呼するものだから、素直な人はつい暗示に掛かってしまうが、あれは自分たちの楽しみをそう簡単によそ者に悟られてたまるものかという、田舎の人特有の隠匿趣味ではないか知らんと、最近我輩は疑っておる。

うそだと思うならやってみるがいい。

我が一挙手一投足がソク環境の劇的改善を成し遂げていく様を目の当たりにすれば、誰しも心理学で言うところのスキナーボックス効果、ないし、オペレーション条件付けにはまり、カルビー言うところのヤメラレナイトマラナイ状態に陥ること必定。

かてて加えて、鎌を振り回すあの爽快感。何も我輩は猟奇残酷のヤカラではないが、ヒトは刃物を得てはじめて文明を築き得たわけで、従って、刃物でものを切る時の快感はヒトの半ば本能にかかわっている。

とりわけ柄長四尺に及ぶ大鎌を振るって、憎っくき草、柴をなぎ払う快感は、ゴルフやテニスやバッティングに勝るとも劣らぬ娯楽である。否、蓋しそれらの比に非ず。

さて、しかし、目くるめく悦楽の作業は、まだ始まったばかりだ。

刈り取った草小枝を焼却する段に至れば、いかな紳士淑女も歓喜抑えがたく、不気味な笑みを満面に吹きこぼし、あるいは、野良猫を見つけた飼い犬にも似た没我的うめき声をさえ漏らすも絶無と断ずる能わず。

火はやはり太古の昔からヒトの生活を支えた力であって、故に火を焚けばヒトは本能的な喜びと安心を得る。

さらに、草刈り後の残滓を焼けば、先刻そこに在った膨大なゴミの山が炎となり煙となって消え、あとにはわずか一握りの灰を残すのみ。この神秘の浄化作用に自ら携わって感動しない者は、よほどの間抜け、愚か者である。

刈ったばかりの草木がそう簡単に燃えるものかと思うのは、生半な教養人のよく陥る誤解である。青々とした草葉もまた、しかるべく燃せば、しかるべく燃えて灰と成る。




その科学的理屈は簡単で、要は、よく燃えた熾の上に生の草木をくべれば、次第に乾燥しやがては発火するのだ。それを正しい時間配分で繰り返せば、継続的に生草を燃やすことができる。

このさほど難しくない、しかし微妙な火の管理は、人を夢中にさせる。

かくして我輩は、昨日も正午より日暮れまで、草刈り、剪定と残滓の焼却にわれを忘れて燃えたのである。

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